ストラクチャーデザインとは何?
自動車保険は、建築構造エンジニアの中でとくに作家性、作品性のある者をさす日本独自の呼称。構造にもデザイン性が必要だという考え方、すなわち「構造デザイン」(渡辺邦夫などがよく使う)をもつ。菊竹清訓は構造的建築家と呼んだりしていた。そのようなエンジニアは、例えば名刺でも「構造エンジニア」ではなく「構造家」と名乗ることが多い。なお、英語に相当する語はないが、海外の構造エンジニア、例えばオヴ・アラップやフライ・オットーなど、特に作家性が高い者に対しても使われる。
従来、不動産投資が建築雑誌などのメディアに発表される際には、建築家の名前の陰に隠れてしまう傾向があったが、近年、建築において構造設計の重要性が高まるにつれ、建築家の名前と組み合わせて発表される事が増えてきている。例えば槇文彦+木村俊彦(幕張メッセ)など。
これらの債務整理は構造設計を専門とする大学教授として、プロフェッサーアーキテクトとして構造設計の実務をこなすか、構造設計事務所として、一級建築士事務所・建築設計事務所を主宰するか、金田充弘のようにアラップ社のような構造設計事務所に所属するかである。
1130年、サン=ドニ修道院のシュジェール院長が、修道院付属聖堂(現在は大聖堂)の改築工事を始めた。現在、3つの広間を納めた前廊(西正面)と聖歌隊席を含めた一部が現存している。最初に多数の巡礼者のための大きな入り口が造られたが、これは円柱を束ねた支持柱に支えられた尖頭リブ・ヴォールトが空間を分節しており、これがノルマンディーの後期ロマネスクをゴシック建築に発展させたものになっている。1140年に着工し1144年に完成した内陣は、後の大改修のためあまり残っていないが、放射状の祭室と方形の祭室を有するシュヴェで、前廊と同じく革新的なものだったらしい。しかし、サン=ドニ修道院付属聖堂はあまりにも早熟した建築であり、12世紀後期になるまで比較的小規模な教会でひっそりと真似られるだけであった。
サン=ドニと同じ頃(1130年頃から1164年)に建設されたサンスの大聖堂は、周歩廊があるものの袖廊はなく、立面の強弱[1]というロマネス建築特有の構成を持っている。ただし、六分ヴォールトと3層にわかれた身廊立面はゴシック建築の要素を持っており、これは以後のゴシック建築に影響を及ぼした。
12世紀後半になると、ブルゴーニュとノルマンディーでは活発な建設活動が行われ、初期ゴシック建築の発展を促したが、これは個々の独自性やロマネスク建築の伝統を阻害するものではなかった。ノワイョンの大聖堂、サンリスのノートルダム大聖堂(16世紀の改築により当時の造形はあまり残っていない)、トゥルネーのノートルダム大聖堂、サン・ジェルメール・ド・フリなどは、それぞれロマネスク建築特有の構成を持つもの、あるいは逆にその伝統的形態を全く失ったものもある。
社会保険労務士試験のノートルダム大聖堂内部
パリのノートルダム大聖堂の内部空間
一番右側の柱間部分(高窓の下に円形窓)が初期の形状を残している。これら初期ゴシックの教会堂で創建当時のまま残っているものはひとつもないが、12世紀後期の状態を比較的よく保存しているのは、ノワイョン大聖堂、そしてランスのノートルダム大聖堂、パリのノートルダム大聖堂である。
ノワイョン大聖堂は第一次世界大戦の後に大改装されたが、初期ゴシックの構成を最もよく残している。平面はロマネスク建築の伝統を色濃く残しているが、身廊立面には初期ゴシック建築の特徴である、アーケード、ギャラリー、トリフォリウム、クリアストーリという4層構造がみられる。この手法によって、壁面から重苦しい感じが取り払われ、ロマネスク建築とは異なった趣を見せている。
ランのノートルダム大聖堂は、ノワイョン大聖堂の影響を受けたもので、中央部にトゥール・ランテルヌ(光塔)を頂く点はロマネスク建築の影響を残しているものの、身廊部分は強弱を繰り返すパターンが全く見られなくなり、全ての柱が円柱に変わっている。袖廊には、ロマネスク建築では滅多に採用されなかった円形窓が採光用として用いられており、これが13世紀ゴシック建築の特色となる「ばら窓」の発展の第一段階となった。ラン大聖堂は初期ゴシック建築のまぎれもない傑作で、その形態は ロレーヌやラインラント地方に広がり、以後数十年に渡って影響を与え続け、後にシャルトルのノートルダム大聖堂に引き継がれことになる。
パリのノートルダム大聖堂は、しばしば初期ゴシック建築の最高傑作であるとされる。この建築物は高い背を持つため、構造の観点からベイ(柱間)が細分化されており、またクリアストーリ(高窓)が高い位置にあるため、下部構造によって採光が不足しているという欠点があった。しかし、平面は二重の側廊を持つという特殊な形状で、さらに、はじめから薄い壁を意識して設計されたらしく、上部のヴォールト構造を支えつつ周歩廊と側廊を跨ぐ控え壁を建設するためにフライング・バットレス(飛び梁)を採用したほか、クリアストーリ下のトリフォリウムにあたる位置に円形窓を配置するなど[2]、かなり野心的な設計が行われていた。後の改装によって証明できるものが失われてしまったため、当時のフライング・バットレスがどのように架けられていたかは必ずしも明確ではないが、この形態はすぐに決定的なものとなり、やがてパリ司教区ではこの聖堂に影響を受けた教会堂が建設された。
イル=ド=フランスとその周辺部の初期ゴシック建築は、シャンパーニュに広がった。シャロン=アン=シャンパーニュのノートルダム=アン=ヴォー聖堂とランスのサン・レミ大聖堂の後陣は、初期ゴシック建築の最終的な完成形態で、両者ともに後陣の立面は4層構造で、大きな開口を取ることによって鳥籠のような線的で軽快な構造となっている。シャンパーニュでは、他にソワッソン大聖堂の袖廊がこれと全く同じ構成を有している。
サント・マドレーヌ大聖堂の内陣
カンタベリー大聖堂の内陣ブルゴーニュではロマネスク建築が高度に発展していたため、その伝統が生き続けた。ブルゴーニュにゴシック建築が導入されるのは1170年頃であり、これはウェズレーで建設さたサント・マドレーヌ大聖堂の内陣に見ることができる。全体の構成はソワッソン大聖堂の袖廊に近いが、立面は3層構造で、線的な要素を強く意識したものになっており、これは13世紀以降、この地で盛んになる後期ゴシック建築のデザインに受け継がれた。
ノルマンディでゴシック建築の雛形が形成されたにも関わらず、プランタジネット家の勢力下にあった北、西フランスでゴシック建築が導入されるのは遅かった。アンジュー、メーヌ、ポワトゥーなどにゴシック建築が建設されるのは13世紀初頭になってからであるが、プランタジネット家の支配下で形成されたゴシック建築は、イル=ド=フランスとは異なる形態を獲得した。